激しい血流の流れに、大きく息をつく。
 どうやっても落ち着かない。
 響く食器の音の方を見やると、ぺネロープが一人で食事を摂っている。
「起きたの?お腹空いた?」
「変だ……。胸がドキドキする」
 私は毛布をはねのけ、首に指を当てた。
 脈が異常に速い……。
「大丈夫?」
「僕は死ぬのか」
 恐ろしい事に気付いてしまった。もし目を覚まして現実世界に戻ったら、一瞬のうちに完全なる死が待ち受けているのだ。
「きっと精神的なものよ。思いつめないで」
「…………」
 落ち着いている幼い彼女の前で騒ぎ立てるのはみっともない気がして、私はまた横になった。
「朝になれば治ってるわ」
 鼓動は祭りの太鼓のように一晩中私の体の中で鳴り響き、ついぞ一睡も出来なかった。
 ぺネロープの言ったとおり、朝には静まっていたのだが。
 そしてその晩も、同じ状態にみまわれた。
 また次の晩も。
 やがて私はベッドから立ち上がるのも困難になった。
 一度もちゃんとした睡眠をとれず、昼間うつらうつらしていても、物音や彼女の呼び掛けですぐ起こされた。
「ねえ、ちょっとは外の陽にさらされた方がいいわ」
「今、眠りかけたところだったんだよ」
「そう?でもあたしにはいつも寝ているように見えるんだもの」
 私は彼女の肩を借り、足を引きずるようにして外に出た。
 日差しに村が輝き、子供達が車輪を回して駆けている。
 生きてる――そうとしか思えぬ景色。
 私は家の前の安楽椅子に座り、それらを眺めた。
 ぺネロープはふさふさとした髪を束ね、前掛けをして、地面に水を撒いている。
 木の箒でホコリを掃く。
 数日が経ったが、私は相変わらず彼女との思い出を記憶から引き出せないでいる。
「エイ!」
 彼女が急に水をかけてきた。
「こら」
 けらけらと幸せそうに笑う妻……。
 愛情は芽生え始めていた。
 それとも、蘇ってきたというべきなのだろうか。
 紅い雫が褐色の山肌に染み入る頃、私は読んでいた本を閉じて家の中へ戻った。

「この『走れメロス』は、ちょっと変わっているんだ」
 私は夕食のスープをすすりながら話した。
「誤字脱字は多いし、著者の名前もDAJYA OSANとなっている。間違いだ。ストーリーも大まかな筋しか合っていないよ。何度も読んでいるのに、メロスが間に合うのか心配してしまったくらいだ」
「ふふ。でも他の古典もそうだってでしょう?きっと誰かが思い出しながらタイプしたのよ」
 私は豆をスプーンでこねくり回しながら、目だけで彼女を見上げた。
「だが……よく分かったね。僕の好きな本が。僕も読み進めて、ようやく思い出したよ」
 一瞬の間の後、ぺネロープはえくぼを作った。
「気にいってもらえて嬉しい」
 この娘は何か隠している。私の事を詳しくは分からないと言ったが、本当だとは思えない。
 私はなるだけ優しく尋ねた。
「君は知っているね?僕の過去を」
「あなたはあたしの夫よ……。心から愛してた人。確かなのはそれだけ」
 ぺネロープは泣き出しそうになり、
「ごちそうさま」
 と、食器を片付け始めた。
 それを外のバケツに持って行きざま、振り返りもせずに呟いた。
「あなたこそ、どうして私のことを思い出してくれないの?」

「ペネロ?」
 戸口のそばで食器を洗っていたと思った彼女の姿が消えていた。
 外は真っ暗だ。
「う……」
 私はベッドから立ち上がりかけて、眩暈を覚えた。
 仕方なく枕に頭を落とす。
 さっきの出来事を思った。
 彼女はこの村に知り合いが多いから、どこかにお邪魔させてもらっているのだろう……。
 私は寝返りを打って、壁の方を向いた。 
 ヒビ割れと、飛び出した草が目に入る。
 夜が深まるにつれて脈拍はやはり速く打ち始める。
 耳慣れぬ静けさが、ヒタヒタと迫ってくる。
 ふいに、不気味な鳴き声と羽ばたき。
「何だ?」いつかそう訊いた時、背中に密着して眠る少女は「不死鳥……」とくぐもった呟きをもらし、私はなるほどと思ったのだった。
 私は寂しくなった。
(……そういえば、猫はどこに行ったかな)
 黒猫は家具の下などにもぐり込み、ほとんど姿を見せなかったが、白猫は夜になると毛布に入ってくるはずだが。
「おーい」
 呼んでみた。
 ………………。
 ぺネロープについて行ってしまったのだろうか。

ガサッ

 中庭から、草を踏む音がした。
「シロか?」
「うん」
 中庭とは逆方向から声がして驚き、薄闇の部屋に目を凝らす。
 テーブルに向かう人影が、ぼんやりと浮び上がる。
 ぺネロープじゃない。彼女より年上の女だ。

 がたん

 女は椅子から腰を持ち上げ、中庭の扉を開けた。
 月明かりが、その姿を蒼く照らす。
 金髪が背中まで垂れ、白く輝くふくらはぎ。
 右手先に白い包帯がヒラヒラとふっ付いている。
「先生もおいでよ」
 悪びれもせず、私に手を差し伸べる。
「君は妻の友人?」
 私は誘われるがまま、不思議な気持ちで中庭に出てしまった。
 天には満月が浮かんでいた。まるでそれに惑わされているようだ……。
 妖艶な夜の庭は、とても美しかった。
 ぺネロープがよく手入れする花々――私は名前を知らなかったが――が、空を向いて咲き誇っている。
 乾いた砂が広がるこの大地で、ここだけは潤いに満ち、緑を湿らせ、オアシスを創っている。
 庭に一本だけ生えている葉をつけた木に、見知らぬ男が触れていた。
「ここがエデンなのか」
 男は掠れ声で、誰に言うでもなく闇に放った。
 そいつは、警戒しないわけにはいかなかった。
 黒ずくめで、強盗と言われても誰も疑わないような人相をしている。
「誰だ」
 私が聞くと男は振り返った。
「俺か?……ここがエデンだというのなら、地獄からそれを荒らしにきた悪魔だよ」
 芝居がかったそのセリフを、男は至極真面目な面持ちで口にした。
「盗むような物は……ない」
 私は出口を確認する。
「ある」
 男が、一歩近付く。
「聞け。この木は覚醒樹だ。茶にするような葉じゃあない。アンタが眠れぬのはこれを食べているせいだ」
「なに……」
「一緒に住んでいる女に騙されるな。いつまでも、偽りの園にいるな。真実を見に行け――」
 金髪の娘が一歩近付く。
「じゃあ、わたしは天使をやるからね?」
 と男に言った後、私に訴えてくる。
「ペネロに騙されていて。素敵なお庭を、壊すようなことしないで」


 この世では、元いた世界の夢を見る。
 ぺネロープはカートウッドがそれを見るのを恐れていた。そして記憶が取り戻されるのを。
 だが空も白み始める頃、覚醒樹の入ったティーポッドに手を伸ばさなかった彼は、やがて眠りに落ちていった。
 
 カートウッドは教壇の椅子に座っている自分に気が付いた。
 木の机が春の陽を吸い込み、まだ温もりを漂わせている放課後。
 生徒たちの席には、一人の女性徒が居残っていた。
 落とした睫毛、先の丸い鼻、薄い色つきリップを塗った口をすぼめ、補習教材と睨みあっている。
 机の下の脚は、何度も組み変えられる。
「ペネロ、出来たか?」
 カートウッド教師に、女生徒は悪戯っぽく笑って見せた。
「とーぶん、終わらなそう」
 
 カートウッドが目覚めると、ぺネロープは怯えた表情でこちらを窺っていた。
「おはよ……」
 彼は目をこすり、あくび混じりの挨拶を返した。
 土色の部屋である。
「夢、見たの?」
 怯えるように彼女が訊く。
「――君を叱らなくちゃいけないな」
 彼は全てを思い出していた。
 教室のシーンだけでなく、肺炎で苦しんだ病院の白さも、かたわらで編物をする長年連れ添った妻の姿も。
 見舞いにきた女性徒は、先生が死んだら私も死んじゃうからねと冗談交じりに脅した。
「ハァ……」
 なんてことだろう。
 自分が危篤になったとき、彼女はきっと先に――。
「わたしを嫌う?」
 彼はこの、思春期特有の狡猾さと淡い恋心を、永遠に持ち続けることになってしまった少女を見つめた。
「おいで」
 と、ベッドに座らせる。
「……ここの夜は独りじゃ辛い。君は僕を待つために、一体どれだけ過ごしてきたんだ」
 あちらでの一秒がこの世界での永久。自分が死ぬ前に命を絶った彼女は、きっと永い間一人で待ち続けていたのだろう。
「本当に好きだったから」
 カートウッドの胸に傾けた、桃色の頬に、涙が一筋線を引いた。
 二匹の猫が、そっと家を後にした。

「あれが愛だと?」
 エウノミヤはニヤリとした。
「どうだったね」
 オリーブが憤然としているのが分かった。
「イカサマだ――」
 彼は金細工の象をいじりだした。
「そんなことを怒っているのかい。案外ストイックだねえ。愛はどんな嘘もつかせてしまう。それほどのものだってことだよ。お前さんは知らんのだろう?」
 彼は象を放り出した。
「あれよりも強い感情を俺は知っているんだ。憎悪。何でもさせる。人を地の果てまでつき動かす。俺はアンタに俺の行き先を訊きにきたんだ……」
「くだらんね」
「教えてくれ」
「分かってないね。愛と違って復讐は何も生まない」
「まだ俺を調教する気なのか?」
「オリーブは愛で動いてる」
 彼がシェリーを睨んだ。
「死んだお母さんを探してるの。捨てられた猫なの。だから、教えてください」
 シェリーはエウノミヤに頼んだ。
 老婆は目をパチクリさせた。
「そうなのかい」
「違う、俺は――」
 老婆はひきつりのように笑い出した。
「わかった、わかった。そういうことならね……」
 と、水晶を覗く。
「西南西に行きな。運が開けるから」
「わー、わたしにも見せて!」
「来い!!」
 オリーブはもう洞穴の戸口まで行っている。
「彼女を大事になさいよ、お前さん」
 忠告されると、彼は無言で出発してしまった。
「オリーブは恋人じゃないよ」
 シェリーは言った。 
「なんだって?」
 老婆は聞き返した。
「だから、オリーブは恋人じゃないんだよ」
「そんなこと。あいつは否定しなかったじゃないか」
 シェリーは肩をすくめた。
「わかんないけど……。わたしは、いつか、とっておきの人がやってくるって思ってるの。それ、占ってくれる?」
 巫女はあっけにとられた。


……――二人は荒野を歩いている。
 砂混じりの風が、長い髪をなびかす。
 砂が靴に入って、男が毒つく。
 喉が渇いたと女が言い出す……。
 二人は飲み水の設置された屋根付きの休憩所で、編物をする中年の女性に出会った。
「待ち合わせしてるのよ。あなた方、ご存知ないかしら。私の夫なんだけど、こういう人」
 二人は写真を見せられ、それが知り合いの教師だということが分かる。
 男は村の方角を指差す。
 女性は頭を下げて、そちらへ歩いて行った。
「エデンからは必ず追われる――」
 皮肉げに言葉を吐くオリーブの一膜むこうに、誰よりも敏感な悲しみがあるのを、シェリーは見る。
 二人は黙って歩き出した。
 とりあえず、運の開ける方角へ。



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