目の前で、明るい茶色の髪が、風にあおられて散っている。
 そこから連想されたのか、私の脳裏に、桜の花びらが舞う光景が蘇った。
 更にそれを呼び水にして、断片的な記憶が、フラッシュバックする。
 陽に透かしてみた花びらの色。赤い耳朶。金のほつれ毛。編物をする手――。
「あ……っ!」
 私は立ちすくんだ。
 前を歩いていた茶色の髪の娘が、長い髪を押さえながら振り向く。
「思い出せそうなんだ、何か……!待って」
 私は集中し、か細い記憶の糸を見失わないように神経を凝らした。
「………………」
 彼女は黙って待った。
 風が二人の間を通り抜けていく。
 やがて私は諦めた。
「だめだ……。どうしても思い出せない」
 絶望的な声で言う。

 ザッ  ザッ  ザッ
 
 赤茶けた地面を見つめていた視界に、革サンダルを履いた娘の素足が入ってきた。 
 裾の長いフェルトのコートを辿って顔を上げると、若い少女の口元が、ぐっと引き締められている。
「大丈夫よ、私があなたを覚えてる。あなたはカートウッド。私の夫じゃない」
 髪の長い、ペネロープという名の――私の妻は、私の手を強く握って引っ張った。
「行きましょう。私が導いてあげる。心配しないで」
 彼女に促されるまま、私は再び歩き出した。
 思い出しかけた光景は霧散し、頭は寝起きのようにぼんやりしていた。
 夢遊病者の足取りで、荒野を行く。
 そう、私は夢遊病者だ……。
 気が付くと、青縞のパジャマにカーディガンをはおり、足にはスリッパという出で立ちで、この真っ平らな大地に立っていたのだから。
 何時間か前の事だ。
 三百六十度、人工物一つない大自然が広がっていた。
 遠くには西部劇にでも出てきそうな岩山がそびえている。
 私の心と裏腹に、空は青く、これ以上ないくらい平和然としている。
 空気は乾燥し、砂の匂いばかりがする……。わけもわからず一人で地上に産み落とされたアダムのような気分。
 記憶もなく、知識もない。
 ココは何処で、私は誰だ。
 そこへイブがやって来た。
 ぺネロープの姿を見とめた時、本当にこの世で唯一の女性に出会ったような心持ちがした。
 私は全てを承知しているような彼女にすがり、今、こうして二人で歩いている。



 土壁に掘られた家が並ぶ、素朴な村に、一組の男女の旅人、シェリーとオリーブは来ていた。
 村は、北と南に岩壁に挟まれており、彼らは北の山のトンネルから抜けて、谷袋に入ったのだった。
 二十五歳くらいの男、オリーブはさっきから神経質に黒のスーツをはたいていた。
 襟首の開いたシャツの中にも、カールした黒髪の中にも砂が入り込んで、彼の気を苛立たせた。
 一方同年代のシェリーのほうは、赤と白のストライプのキャミソールに付いた染みも、お尻の真っ黒になったジーンズの短パンにも気にする素振りは見せず、汗で金髪を顔に張り付かせながら蟻の巣をほじくり返していた。
 全体的に茶色っぽい格好をして全身を覆っている地元人とは、一見して違うのが分かる。
 オリーブは自分たちと同じように外来者風の人々が混じる行列が、一つの洞穴から延びているのを見つけた。
「……おい」
 子供のように土いじりに夢中のシェリーの首根っこを掴み、地面から引き剥がす。
「や〜ん」
 彼女は間延びした声を上げ、丈の短いキャミソールから幼児体型の膨らんだ下腹部がだらしなく露わになった。
 オリーブは彼女を列の方へ向けて、背中を叩いた。
 抗議するような眼差しを残しながら、シェリーは行列に向かって歩いていった。
「あの〜、ここが占ってくれるんですかぁ?」
 と、並んでいる人全体に尋ねる。
 誰がその問いに答えたものか、場は少し戸惑いを見せた。
「巫女エウノミヤ様のお社ダヨ」
 洞窟の戸口から、白い球体が飛んできて答えた。
「人魂さん!?」
 シェリーが蝶か何か、獲物を見るような目付きになった。
「プー助ダヨ……」
 彼は微かな身の危険を感じて後ずさった。
「私たち、会ったことあるね?」
 懐かしげにシェリー。
「いや、ないと思う。プー助って魂(プシュケー)とかけてるんだ。よくある名前ダヨ」
 ボールのような発光体は、整列させるためにまた飛んでいった。
「人魂ってどうして皆ソックリなの?」
 シェリーは笑いながら、足取り軽くオリーブの所へ戻った。
「そうだってー」
 目当ての洞穴だったことを報告すると、彼は眉間に皺を寄せて行列の最後尾までを見渡した。
 三十人くらいが、点々と立ったり座ったりしている。
「ならぶ?」
 シェリーが屈託なく訊く。
「日が暮れる」
 唸るようにオリーブ。
「じゃあ、また明日?」
 彼女がもう一度訊くと今度は本当に唸り声をあげた。
「え〜、無理だと思うけど………」
 彼の意思をくんだ彼女は、またも列の中へ入って行った。
「おじさん、ここ譲って?」
 と、無闇にマントの男に体を接近させて頼む。
 マントの男は、彼女のねだる様な視線に参りながらも、関わり合いにはなりたくないタイプの無精ひげの男が、こちらに睨みをきかせているのを見た――オリーブだ。
「ああ、駄目だ駄目だ。俺ぁ、四時間もここで潰してんだぜ」
「絶対?だめ?」
「姉ちゃん」
 別の、サングラスを掛けポロシャツを着た男が、話し掛けて来た。
「話によっちゃあ俺の場所を譲ってやらない事もないが」
「話?あのね、あたし達、旅をしているんだけど……」
「あーそんなのはいい。これだよ」
 男は指を擦り合わせた。
「?」
「ホラ」
 オリーブがヌッと頭を挟んできて、皺くちゃの紙幣を男につきつけた。
「これっぽっちか?」
 男が鼻で笑うと、オリーブはおもむろに懐から拳銃を取り出した。
「わっ!!?やめろ」
 慌てて手を挙げると、オリーブは干乾びた唇をニヤリと歪めた。
「ウイリアム・テルを見たことあるか?それをやる……。成功したら代われ」
 聞き取り難い不明瞭な声で凄む。
 見ると、段取りを分かっているらしいシェリーが、背負っていたリュックサックから林檎を出していた。

「やめてー。変なこと始めないでよぅ」
 整列係のプー助は止めたが、縦列はグルッと半円に変わり、オリーブの方を取り囲んでいた。
 三十メートル程離れて林檎を頭に乗せたシェリーが立っている。
「大丈夫なのか?」
 そう言う男の、サングラスの奥の目は、興味をそそられて光っている。
「………………」
 藪から棒に、オリーブは引き金を引いた。
 見物人の間から悲鳴が上がる。
 合図もなしだったので、林檎の置き具合を調整していたシェリーの手を、弾丸がかすめて行った。
「いいよって言ってからー!」
 地面に膝を着いたシェリーが、落ちた林檎を拾いながら叫ぶ。
「動くな」
 火薬の匂いのするピストルを揺らしながら、オリーブも言い返した。
 そして二人は立ち位置に戻る。
「手馴れてるな」
 パフォーマンスの一環だろ、といった口調で男が茶化す。オリーブは一瞥しただけで、銃を構えなおす。
「いいよ」
 シェリーが言う。
 静寂。

 バァン

 鉛弾が彼女の髪を梳いて背後の土壁にめり込む。

 バァン

 三発目は肩の横を過ぎる。

「遠くなってるじゃないかよ」
 と、突っ込みが入る。
 オリーブは、つま先で土を蹴った。
「フゥ」
 かったるげに、片手で、銃を倒して構える。
 
 バン バン バン――――……

「……おい……。わざと外してるのか?」
 呆れたようにサングラスの男。
 射的手は舌打ちし、的に位置をずらすよう促した。
「血が出てるぞ……!」
 誰かが指差すと、シェリーの横に垂らした右手の先から点々と黒い染みが地面に落ちていた。
「最初のが当たってたんだ」
「もう止めたほうがいいんじゃないか」
 口々に非難の声が上がるが、オリーブは顔色一つ変えずに続けようとしていた。
「なぁ、兄ちゃん。的に当てた事はあるんだよな?」
 サングラスの男が耳打ちする。
 オリーブは考えるように黙っていたが、小さく、
「……いや」
 と否定した。
「またまたぁ」
 しかし男には、それが真実のように聞こえていた。
 そして次放つ一発こそ、ついに女の額を撃ちぬくんじゃないかという予感に捕らわれた。
 あの野生の狼のように凶悪な目は、本気で赤い果実を狙っているのか?
 怪我しながらも銃口に向き合う頭の弱そうな女は、相棒を信じている訳ではない。じっと身を貫かれるのを待っているのだ……。
 男は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 だが、その一発が放たれる事はなかった。

「何してるんだい!アンタ達!」
 
 鋭い恫喝が、無謀なショーに幕を引いた。
「エウノミヤ様……」
 ざわめき。手を合わせる者もいる。
 プー助を従えて、洞穴から老婆が出てきた。
 白髪にかんざしを刺し、険しい顔つきで、首周りにはビーズや勾玉をジャラつかせている。
 広く名を轟かす、霊感の巫女だった。
「うるさいねえバンバンバンバン。占いに集中できないじゃないか。アンタら、何しにここに来たんだい?馬鹿げた催しを見に、わざわざやって来たのかい?」
「エウノミヤ様っ、私が何者なのか教えてください!」
 悲痛な面持ちで女性がすがり付く。
「あとで教えてくれるよー」
 と間の抜けた声で言って、プー助が引き剥がす。
「お前たち、おいで」
 悪さした生徒を呼び出す教師のように、老婆はシェリーとオリーブの二人を洞の中に呼び込んだ。
 林檎を降ろしたシェリーは心なしかホッとした表情で、オリーブの後に続いた。

「命知らずな奴らだね」
 低い鴨居をくぐると、土壁が剥き出しの天井から、呪具のような金物が所狭しとぶら下っていた。
 丸い小部屋は線香の煙が充満している。
「命?」
 オリーブが巫女の言葉の揚げ足を取った。
 老女は煩げに、
「まだ死んだわけじゃないんだからね。無敵じゃないんだよ、あたしらだって。心が死んだらそれこそ本物の無が待っている」
「誰も見た事はない……」
 オリーブは引き下がらなかった。
「その調子じゃ、現世でも捻くれ根性だったんだろうね。まさか、この娘もさっきの馬鹿げたゲームで……ここに送っちまったんじゃないだろうね」
 オリーブは長い前髪の下から、汗で光った睫毛を上げた。
「水晶で見たらどうなんだ?分かるんだろ、あんたには……」
「む」
 老婆は背を丸めて水晶玉を覗き込んだ。
 手で煙を払う。
「ちょっとけぶりすぎたね……。見にくいよ。……。おかしいの、見えんぞ。お前たちがあたしの集中力を削いじまったからじゃ」
「見えないの?」
 シェリーが心底残念そうに言う。
「むう……」
 老婆は意固地になって水晶を凝視し続ける。
「影が……見えるわい。小さい……二つの……かたまり……三角の耳……しっぽ……」
 と、勢いよく誰かが駆け込んできた。
「エウノミヤ様!」
 それは荒野を歩いていた娘、ぺネロープだった。
 彼女は同じく一緒に歩いていた、立派なアゴ髭を蓄えた、中年の男の手首をしっかり掴んでいる。
「逢えましたっ。わたし……!エウノミヤ様のおっしゃった日時、おっしゃったとおりの場所で」
 と言って、彼女は感極まって泣き出した。
「みんな順番を無視するんだから……」
 プー助が後ろでブツブツ言っていた。
 エウノミヤはぺネロープを抱きしめてやった。
「そうかい……長かったね……。よく辛抱したよ」
「はい……」
「――あの。……ここは、どこなんでしょうか」
 すっかり話に置いてかれた髭の男、カートウッドが、恐る恐る老女に尋ねた。
 老女は顔の皺を光と影の陰影で強調しながら、ゆっくりと口を動かした。
「アンタも薄々気付いているんじゃないのかい?ここは……死に逝く者どもの夢さ」
 カートウッドは首を締められたようになった。
「それは、つまり……あの世?」
「いんや、その手前さね。お前さん、夢を見たことはあるかい」
「夢、ですか?夜見る」
「そう。今、あたしらは夢の中にいるんだよ。現世の一瞬の間に、長い長い夢を見てるのさ」 
 ぺネロープが、カートウッドに身を寄せて、ギュッとその手を握った。
「わたしがついているわ」
「どういうことか、さっぱり分からない……」
「やれやれ、アンタの良い人は物分りが悪いね」
 エウノミヤが言うと、ぺネロープは胸を張った。
「アラ、こう見えてこの人、教師なのよ」
「教師?僕が?」
 カートウッドが驚いて聞き返す。
「……え、ええ。そうよ」
「他にも僕のことを何か覚えているのか」
「わからないわ……」
「わからない?」
「ええ」
 ぺネロープと巫女が目を合わせた。
「あたしはもう説明しなくていいのかい?」
 エウノミヤがカートウッドに言う。
「聞かせてください」
「じゃあ口を挟まないようにね。手早く済ませたいんだ。あたしだって暇じゃないんだから」
 そして話し始めた。

 誰かが夢を見ると世界はまた大きくなる。
 病院のベッドで、凶弾に倒れた戦場で、車にはねられた路上で――。
 からだに完全に死が行き渡るまで、僅かな時、脳は幻を作りだす。
 天国でも地獄でもない。
 もう一つの似た世界に運ばれる。全ての人間・生物がというわけではないが。
 だから他にもこんな場所があるのかもしれない。
 花畑か火炎地獄か。
 でもお前はここに来た。
 現世に生きる者よりも確実に死に近く、しかし永遠にもまた限りなく近い時を過ごしに。
 現世の一秒が、ここでは、永久(とわ)。

「信じられん。戻る方法はないのか。目を覚ます方法は……」
 カートウッドが頭を抱えた。
「まず、ないね。死にとり憑かれた者がだけがここに来るんだ」
 エウノミヤは言い切った。
「観念して暮らしていく事さ。幸い、アンタには知り合いがいるじゃないか。その娘は、アンタが来るのをずっと待ってたんだよ。何十年も」
「そうなのか?」
 ぺネロープは涙の染み込んだ目で瞬いて頷いた。
 そして袖で顔を拭った。
「ところでエウノミヤ様?そこの猫はどうしたの」
 床にはいつの間にか二匹の猫がいた。
 小柄で薄茶の混じった白っぽい猫と、それよりがっしりした大きな、尾の短い黒猫が。
「可愛い……チッチッ」
 シェリーが腰をかがめる。
 黒猫が僅かにフーッと鳴いたが、白猫は人懐っこく彼女の指の匂いを嗅いだ。
「気にいったなら、ちょっと預かってくれないかい。悪戯好きで手に余っててね……」
「いいわ。ね、いいでしょ?あなた」
 とぺネロープがカートウッドを見上げる。
「え?あ、ああ……でも、どこに」
「私たちのエデンよ」
 彼女は微笑んだ。
――アンタ達も恋人同士なら、愛というものを知ることだよ。
 エウノミヤが口には出さない声で言った。二匹の猫はそれが聞こえたようにぺネロープの腕の中で老婆を振り返った。



私は小さな、天井の低い、中庭つきの洞窟に案内された。
「私の家よ」
 ぺネロープは誇らしげだった。
 台所も寝室も一緒くたにした部屋に、少女らしい木の実を加工した小物がたくさん飾られている。
 私はどっと椅子に腰を下ろした。
 疲労が、背中にのしかかっている。
「疲れたよ……眠い」
「今、お茶を入れてあげる」
「おかしなものだ……。死んでも体はそのままなんて」
「まだ死んでないのよ」
 彼女は明るく笑って、中庭のほうへ消えて行った。
 どうして笑えるのだろう。死んでないというだけで、安心できるのか。
(あの世にいるなら同じ事だと思うが)
 私はその後姿を横目で見送りながら、胸のうちで毒ついた。
 だが、彼女の明るさも、長くここに居るうちに取り戻したものだということが、私にも分かっていた。
 初めは、動転したに違いないのだ。彼女も、今は平穏に暮らすこの村の人々も。
 永い永い緩やかな時が流れる間に、不安も絶望も淘汰されていったのだろう。
 私もそうなれるかは、分からないが……。
「その葉は?」
 彼女は緑の葉っぱを手にして来た。
「――これを、こして飲むの」
 白いすり鉢に入れて細かくする。
「理科の実験みたいだな」
 と言って、私は何かがひっかかるのを感じた。私は教師だったはず……。しかしそこから記憶の戸を開けることは出来なかった。
「さあ、飲んで」
 柔らかな湯気の昇るティーカップに口を付けると、舌に痺れるような刺激を感じた。
「慣れたら病みつきになるのよ」
 思わず顔をしかめた私に、彼女が言う。
「本当かい?」
 青臭く苦味ばかりがあるお茶を、私はなんとか飲み干した。
「眠ってもいいかな」
「いいわ。そこのベッドで」
 隅の粗末な作りの寝台を指差す。
「君はどこで眠るの」
「一緒に」
「え……あ・そうか。うーむ」
 忘れていた。私たちは夫婦なのだっけ。
「その格好で?」
 ぺネロープが言った。
 私は土ぼこりに汚れたパジャマを見おろす。
「寝巻きだから丁度いいじゃないか」
 と笑う。
「汚いわ。ちょっと待ってて」
 ぺネロープはいそいそと長持ちをあさり出した。
「ジャーン」
 彼女が広げた木綿の上下は、私にピッタリだった。
 鏡に、現地人のような姿をした自分が映る。
 年は……四十は、いっているだろう。
「あなたに必要なものは、全て用意したのよ。一つ一つ集めるのが、楽しかった」
 背後に映る嬉しそうな少女は、どう見積もっても、十八……。
(我ながら随分若い子と結婚したものだ)
 自分自身に呆れてしまう。
 ニャ―ン、と甘えた鳴き声で、牝の白猫がぺネロープの足に頭を擦り付けた。
 右足の毛が赤く固まっている。
「おや、お前、怪我してるの?おいで、包帯巻いてあげるから」
 彼女が猫を連れて行った。
「おやすみ」
 私は言った。
 夕日は落ち、辺りは闇に包まれ始めている。
 この世界にも夜は来るようだ。





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